7月26日は、鶴屋南北の「四谷怪談」が初めて公演されたことから「幽霊の日」といわれています。また、日本は怪談の好きな国柄なのか、昔から伝えられている有名な怪談はたくさんあります。
そこで今回は、小泉八雲の作品をオムニパス形式で映画化した「怪談」を紹介します。今のホラー映画のような怖さはないものの、あの世というのが今よりも身近なものだったということが、この映画を観るとよく分かるでしょう。
あらすじ
映画「怪談」は、小泉八雲の作品から「黒髪」、「雪女」、「耳無芳一の話」、「茶碗の中」の4話を映画化したオムニパス作品です。
「黒髪」
昔の京都が舞台で、貧しかった武士が出世のために妻を捨てて良い家柄の娘と結婚するのですが、その娘はわがままだったことから、武士は自分の身勝手な振る舞いを後悔し、捨てた妻のことを思っていました。やがて、任期を終えて京に戻った武士は妻の家に向かうと、そこには以前と同じように機織りをしている妻の姿がありました。武士はこれまでの自分を詫びて、妻と一夜を共にするのでしたが、翌朝目が覚めてみるとかたわらには黒髪があったのでした・・・
「雪女」
武蔵国の巳之吉と木樵の茂作が薪を取りに森へ行きますが吹雪にあったことから、森の山小屋で一夜を過ごします。その夜、巳之吉は、白い着物姿の女が茂作に白い息を吹きかけて凍死するのを目撃します。恐怖で震えている巳之吉に女は、「今夜見たことを誰にも話してはいけない。もし話したらお前を殺す」と言って姿を消しました。1年後に森に薪を取りに行った巳之吉は、帰り道で若くて美しいお雪という女性に会い、彼女と結婚し3人の子供と暮らすようになるのですが・・・
「耳無芳一の話」
壇ノ浦の戦いの700年後、盲目の琵琶法師芳一は、目の前に現れた甲冑姿の武士から、高貴な人のために琵琶を聞かせるためにやってきたと言われました。武士は芳一を高貴な人がいる場所へ連れていき、そこで平家物語の「壇ノ浦の戦い」を演奏させました。それ以降武士は毎晩になると芳一を連れていくのですが、そのことを不審に思った寺の住職は、2人の寺男に芳一の後をつけさせました。そして、その夜に寺男が見たものは、人魂が飛び交う平家の墓の前で琵琶を演奏している芳一の姿でした・・・
「茶碗の中」
中川佐渡守の家臣の関内は、茶碗に水を汲み飲もうとすると、茶碗の中に見知らぬ男の顔が映っていました。水を入れ替えたり茶碗を変えても男の顔が映っていたのですが、とうとう関内は男の顔が映った水を飲んでしまいます。その夜、夜勤をしている関内のところに、式部平内と名乗る若侍が現れますが、その侍は茶碗の中に現れた男でした。関内が刀を抜いて侍を切りつけると、侍はすうっと消えてしまいましたが、その後、屋敷に戻った関内は、式部平内の家臣と名乗る3人の武士の来訪を受け・・・
呼び寄せるものと引き付けられるものの怖さを描く・・・
映画「怪談」は、最近のホラー映画と比べてみると、得体の知れないものに襲われたり、いつ恐ろしい目にあうのか分からないという怖さはないかもしれません。
ですが、怪談の世界を見てみると、現代と比べてあの世とこの世の境界というものがとても曖昧で、あの世から呼び寄せるものと、この世から引き付けられるものを取り結ぶのが、ある種の情念のようなものに思えます。
「黒髪」では妻に未練を持つ侍の情念によって妻のいる家へと引き寄せられ、「雪女」では死の恐怖におののきながらも雪女の美しさに魅了された巳之吉の情念によって雪女に引き寄せられていきます。
「茶碗の中」は他の作品と少し趣向が異なっているのですが、「耳無芳一の話」でも高貴な人の前で演奏するという芳一の情念があの世へと引き寄せられていくのです。特にこの話では、芳一が盲目であったことから、相手を見ることができず、相手を感じることしかできなかったというのがこの話の肝といってもいいでしょう。
こうしたあの世から呼び寄せるものとこの世から引き付けられるものを描いた映画「怪談」ですが、映画のほとんどがセットで作られ、例えば「雪女」の中で空に描かれる目玉や、何ともいえない色遣いの世界、そして武満徹による電気処理を加えた不思議な音楽が、さらにこの世とあの世の曖昧な境界を鮮烈なものにしています。
音楽といえば、「耳無芳一の話」では平家物語の「壇ノ浦の戦い」のくだりを、あたかも平家の亡霊の一人として聞いているかのような気分になるのも、この映画の見どころの一つです。
オチのない怪談とは・・・
映画「怪談」は良く知られた話が映画化されていますが、その中で「茶碗の中」は他の3作品とは少し毛色の異なるものといえるでしょう。
日本の怪談は仏教の影響もあるのか、西洋の怖い話と異なり、因果応報をベースとした、この世の恨みや未練が原因の話が多く、西洋の怖い話のように見知らぬものに襲われる恐怖というのは少ないように思えます。
ですが、「茶碗の中」という作品は、なぜ関内の茶碗の中に見知らぬ男の顔が映っていたのか、そして関内の前に茶碗の中に映っていた式部平内やその家臣が現れたのかというのも謎のままです。
映画では、関内が見知らぬ男の顔が映った水を飲みほしたことで、式部平内の魂を飲んだともいわれていますが、なぜそれが魂を飲んだことになるのかも不明です。このように謎が解けないままに進んでいく話というのは、観るものに得体の知れない不安を与えます。
そしてこの「茶碗の中」の設定は、明治時代の作家が古くから伝わる話を書こうとしたことや、映画の不思議な終わり方を考えてみると、時代が変わるに連れて、怪談がこの世とあの世をつなぐ情念ではなく、得体の知れない恐怖へと変わっていったともいえるのではないでしょうか。