1945年の終戦記念日からおよそ80年もの歳月が流れたということもあり、リアルな体験を語ることのできる人が少なくなってきました。
戦争がもたらした悲劇は忘れてはいけないのでしょうが、これだけ月日が経ってしまえば、次第に戦争の傷跡も薄れてしまい、ブラウン管を通じて見るロシアとウクライナの戦争もよその国の出来事のように感じてしまう人も少なくないのではないでしょうか。
この映画を観ることで、戦争という運命のもとで、どれだけ個人が翻弄されるか、そして兵士たちのやるせなく行き場のない怒り(フューリー)とはどういうものかが分かるのではないでしょうか。
あらすじ
1945年4月、ヒトラーが焦土作戦を実行しようとしているなか、連合軍はベルリンに進撃すべく、最後の攻勢を行おうとしていました。
そんななか、車長のドン・コリアー/ウォーダディー(ブラッド・ピット)が指揮する戦車「フューリー」号の副操縦士が戦闘で死亡したことから、後任に新兵でタイピストだったノーマン・エリソン(ローガン・ラーマン)が配属されます。
アフリカ戦線からの歴戦の強者だったクルーに対して、ノーマンは戦闘の経験もなかったことから、ドイツ兵を殺すことにためらうノーマンを他のクルーは見下し、さらに従軍中、木陰にいた人影に気づいたにもかかわらず報告しなかったことで、先頭を走るパーカー中尉(ゼイヴィア・サミュエル)の戦車が破壊されてしまったのです。
怒り狂ったウォーダディーは、戦争の現実を教えるために、捕虜となったドイツ兵を射殺するようノーマンに強要します。
ノーマンはこれを拒否するのですが、ウォーダディは無理やりに銃を持たせることで、捕虜を射殺させるのでした。その後、とある小さな町でノーマンは、ウォーダディーに連れられ民家に隠れていたドイツ人女性のエマ(アリシア・フォン・リットベルク)に出会います。
親密になったノーマンとエマでしたが、任務に戻ろうとする際にドイツ軍の砲撃が加えられ、その砲弾がエマの家に直撃したことで、エマは死んでしまいます。
戦争に協力しない市民を無差別に殺す様子を見るにつれて、ノーマンの中でもドイツ兵に対して憎しみを持つようになり、敵に銃を向けることをためらわなくなっていくのでした・・・
映画で描かれた内容は実際にあった出来事なのか?
映画の内容があまりにリアルに描かれているため実際の出来事と思った人もいるかもしれませんが、クエンティン・タランティーノ監督の「イングロリアス・バスターズ」でブラッド・ピット演じるユダヤ系アメリカ人からなる秘密部隊を率いるアメリカ陸軍のアルド・レイン中尉がフィクションであるように、「フューリー」で描かれた内容も実際の出来事ではありません。
ですが、映画でウォーダディーが指揮をとる戦車「フューリー」号が実在することを裏付ける写真が存在していることに加えて、この映画の監督であるデビッド・エアーがアメリカ海軍で潜水艦隊員として従軍経験のあったことや、監督と製作総指揮でもあったブラッド・ピットによるディテールのこだわりが、映画を観る者にこれまでの戦争映画にはないような生々しいリアルさを与えているのは確かでしょう。
歴史的に見れば、1944年6月6日に連合軍がノルマンディーに上陸し、1944年8月25日にはそれまでナチスによって占領されていたフランスのパリが連合軍によって解放されました。
その後、1944年12月から1945年1月にかけて行われた「バルジの戦い」でドイツ軍を負かした連合軍は、ドイツ本土への進行を開始し、3月22日から24日にかけて相次いでライン川を渡河したイギリス軍はドイツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃しようとした頃の出来事を映画は描いています。
また、映画の中で描かれていた見せしめに殺された市民が首から札を下げて晒されていた場面は、戦争の末期に憲兵につかまった脱走兵や戦争忌避者が、軍法会議にかけられることなく殺され、首から「臆病者はこうなる」とプラカードをかけてさらし者にしたという事実に基づいて描かれています。
さらに、ウォーダディーが武装SSに対する憎しみを隠そうともせず、映画の中で捕虜になったSSの隊員が射殺されるという場面がありましたが、実際の戦争でドイツ兵が降伏したアメリカ兵を虐殺したという出来事があり、これによってドイツ兵に降伏しても殺されるという認識がアメリカ兵に広まったということが背景にあるようです。
今回の映画は戦場で1日に起こった出来事を描いていますが、トラックに山積みにされた負傷者や殺された少年兵、戦車のキャタピラーにひかれる泥まみれの死体など、これまでの戦争映画があまり描かなかったような細部の場面まで描いていることに、監督およびブラッド・ビッドのこの映画に対するこだわりがより映画をリアルなものにしているといえるでしょう。
ウォーダディーがノーマンにこだわったのはなぜか?
一筋縄ではいかない歴戦の兵士を指揮するウォーダディーが、最後までノーマンにこだわったのはなぜかという理由は、はっきりと映画には描かれていません。
また、なぜウォーダディーがドイツ語を話すことができるのか、ウォーダディーがどうしてそこまでSSの隊員に怒りをぶつけるのかというのもはっきりとした理由は分かりません。
ですが、ここからは映画の内容からの推理になるのですが、ウォーダディーが戦場の経験のないノーマンにこだわったのは、ノーマンの姿に若い頃の自分をだぶらせたのではないかということです。
ノーマンが最初に死体を目にした場面で思わず嘔吐する場面と、持ち場を離れて1人になったときの、それまでと違った悲しみの表情を見せるウォーダディーの姿はどこか重なるようにも思えます。
また、最初にノーマンがウォーダディー指揮する兵士に荷物の中を調べられ、中から本が出てきたことで馬鹿にされる場面がありましたが、一方のウォーダディーは従軍中に聖書の一説を引用するなど、普段見せる荒くれ者とは違った一面も見ることができます。
そして、ウォーダディーがノーマンをドイツ人女性のいる民家に連れていきますが、かってのウォーダディーも同じような経験があり、ノーマンのように好意を寄せた女性をSSの隊員に殺された過去があるのではというように深読みしてしまいます。
そして、ウォーダディーがノーマンをラストでは「son」と呼んでいることかも、ノーマンのことを自分の息子のように感じていたのではないでしょうか。
最後まで戦うといったウォーダディーが、ノーマンに対しては逃げろと言ったのも、ノーマンが若き日の自分のようでもあり、また自分の息子のように彼が感じていたからでしょう。
そして、彼がもともとはタイピストだったことから、彼が生き残ることで、兵士たちが抱えるやり場のない怒りを伝えて欲しいという願いもあったのかもしれません。
そう考えてみると、今回の映画「フューリー」は最後まで生き残ったノーマンによって語られたストーリーともいえるのではないでしょうか。