映画監督というのは大きく分けて2種類あります。それは映画に自分も役者として出演する監督と出演しない監督です。
映画に出演する監督として有名なのはヒッチコックでしょうか。彼は自分の映画のワンシーンのどこかに必ず出演するため、どの場面で出演しているのだろうということも話題のひとつになりました。
ヒッチコックのような監督をスクリーンで見ると、監督の中には映画を製作する裏方ではなく、映画に出演する表の世界に一度は立ってみたいと思う人がいるようです。
そのせいか、監督の演技の良し悪しは別として、役者としての監督というのはどの作品を見ても個性的で味のある役を演じているようです。
そこで今回は、監督が自身の作品や他の監督の作品で出演している映画を紹介します。
【-映画に愛をこめて- アメリカの夜】
作品解説
【-映画に愛をこめて- アメリカの夜】(1974) は、監督がフランソワ・トリュフォーで、自身もフェラン監督役として出演している、映画撮影を舞台にした群像劇のような映画です。
タイトルからも分かるように、この作品ではフランソワ・トリュフォーの映画愛がとても感じられる作品です。
そのことはリリアン&ドロシー・ギッシュに捧ぐという冒頭の献辞や少年のフェラン監督が【市民ケーン】(1966) のスチールをステッキで盗む夢、撮影中に送られてきた本の表紙を見ればゴダールやヒッチコックなどといった監督の名前が書かれていることでもよく分かります。
映画を撮影している映画を撮るという何とも不思議な映画ですが、この映画を見ていると映画がどのようにして撮られているのかという映画の裏の世界がよく分かるとともに、映画を作るのにこれだけ多くの人がいて、それをまとめる監督というのも大変な仕事だというのが分かります。
映画を撮影している間も、フェラン監督の元には様々な人がアドバイスを求めるため、そのことに対して的確に答えないといけないだけでなく、セリフが覚えられない女優や撮影を途中ですっぽかしてしまう男優など、撮影現場では何かとトラブルが発生していきます。
映画がどうやって作られていくかという映画としては面白いですし、俳優や裏方といった映画の製作に関わる人々の様子もよく分かるのですが、その一方で肝心のフェラン監督の人間像というのは今ひとつはっきりしない映画でもあります。
そのためか、かってトリュフォーの盟友でもあったゴダールは、この映画は映画の裏側を見せているようで肝心なことは隠されていると辛辣な批評を寄せています。
ただし、このことは映画愛を語るトリュフォーに対して、映画とは何かを語るゴダールの考え方の違いでもあるので、それだけでこの映画の面白さは損なわれることはないでしょう。
映画のタイトルにあるアメリカの夜というのは、カメラのレンズにフィルターをかけることで夜のシーンを昼間に撮ることです。
モノクロ時代に発明され、ハリウッドで使用された撮影スタイルのためこのように呼ばれましたが、このタイトルからもトリュフォーの映画に対する愛情というものが伝わってくる作品です。
基本情報
公開・製作国:1974年、フランス
監督:フランソワ・トリュフォー
原題:La Nuit américaine
配給:ワーナー・ブラザース
キャスト:ジャクリーン・ビセット、ジャン=ピエール・レオ、フランソワ・トリュフォー
配信:[U-NEXT](PR)
© Warner Bros. Entertainment Inc.
【カルメンという名の女】
作品解説
【カルメンという名の女】(1984) は、監督がジャン=リュック・ゴダールで、彼自身マルーシュカ・デートメルス演じるカルメン Xの伯父さん役で映画に出演しています。
原作はプロスペル・メリメの短編小説「カルメン」を下敷きにしていますが、現代に舞台を移し、カルメンを強盗団の一味にカルメンを刺し殺すドン・ホセの役割を、ジャック・ボナフェ演じる警備員のジョゼフにと大胆にアレンジしています。
映画で使用している曲もジョルジュ・ビゼーの楽曲ではなく、ベートーヴェンの【弦楽四重奏曲】というのもゴダールらしいひねりです。
ゴダール演じるジャン叔父さんはかっては有名だったものの、不正を働いたことで映画界から追放され、今では病院暮らしを送っている監督という設定で、カルメンがジャン叔父さんに別荘を貸してほしいと頼むところから物語がスタートします。
ゴダールの映画はとかく難解といわれるのですが、【カルメンという名の女】 もよく見ると、これまでゴダールが監督した映画との共通点がいくつか見ることができます。
1つは自分が好きな女性に男性が裏切られるという設定です。
これは【勝手にしやがれ】(1960) や【ピエロ・ル・フ】(1967) でも共通する内容です。
そして、【カルメンという名の女】では、海と夜明けのシーンが挿入されていますが【ピエロ・ル・フ】(1967) でも海は頻繁に出てきますし、ラストでランボーの詩が引用される部分は、今にも海の地平線に沈もうとする太陽です。
ストーリーやセリフとは関係のない映像で何かを描こうとするというのも、かってゴダールが撮った映画とよく似ています。
その他、警察がなぜか機関銃を持っているというB級アクション映画のような場面や、映画監督といえば【勝手にしやがれ】では、ジャン=ピエール・メルヴィルが、【ピエロ・ル・フ】ではサミュエル・フラーといった映画監督が出演しています。
こうした共通のキーワードを探してみると分かるように【カルメンという名の女】は、かって自分が監督した映画に先祖帰りした作品ともいえます。
また、【カルメンという名の女】ではトムウェイツの曲が使われているのですが、ジムジャームッシュの映画でブレイクする以前に彼の曲を使用したというのも、ゴダールの先見の明といえるのではないでしょうか。
基本情報
公開・製作国:1984年、フランス
監督:ジャン=リュック・ゴダール
原題:Prénom Carmen
配給:Parafrance Films
キャスト:マルーシュカ・デートメルス、ジャック・ボナフェ、ジャン=リュック・ゴダール
配信:[U-NEXT](PR)
© 1983 STUDIOCANAL / FRANCE 2 CINEMA. Tous Droits Réservés.
【フロム・ダスク・ティル・ドーン】
作品解説
【フロム・ダスク・ティル・ドーン】(1996) は、監督が【デスペラード】(1995) のロバート・ロドリゲスで、映画監督のクエンティン・タランティーノが脚本と、ゲッコー兄弟の弟であるリチャード・“リッチー”・ゲッコー役を演じています。
今回の作品は、前半部分と後半部分で内容がすっかり変わってしまいます。
前半はジョージ・クルーニー演じるセス・ゲッコーとリチャード・“リッチー”・ゲッコーの兄弟が、いかにしてメキシコの国境を超えるかというクライムサスペンスです。
しかし、後半になるとメキシコの国境を超えて入ったトップレスバークラブ「ティッティー・ツイスター」がヴァンパイアの巣窟ということから、映画の内容が一気にホラーアクションになります。
タランティーノ演じる弟のリチャードは、冷静な兄とは対照的に精神を少し病んでいるようで、幻覚や幻聴から簡単に人を殺してしまうかなりやばい人物です。
クラブではヴァンパイアに噛まれたことで吸血鬼になってしまうのですが、タランティーノ自身こういう役柄を楽しんでいるような節が見られます。
特に、オープニングで穴の空いた手から兄を見つめる場面や、サルマハエック演じる地獄のサンタニコの足から垂れるお酒を舐めるように飲むシーンは、自分がやりたいがために脚本を書いたのではないでしょうか。
また、【フロム・ダスク・ティル・ドーン】 では、強盗殺人を繰り返してきたゲッコー兄弟をハーヴェイ・カイテル演じるジェイコブ・フラー一家がメキシコへ逃亡するのをやむを得ず手助けするのですが、一方は神を信じない犯罪者、もう一方はかって神を信じていたものの妻を亡くしたことで神が信じられなくなった元牧師という設定にしています。
どちらも神を信じないけれども、ヴァンパイを目の前にして地獄はあるのだと確信し、ヴァンパイアと戦うには信仰が必要だとセスがジェイコブに信仰を取り戻させようとするシーンなど、他のヴァンパイア映画にはないユニークさが見られます。
吸血鬼とのサバイバルシーンなどは残酷ではあるのですが、怖いというよりはどこか可笑しさも感じられる不思議な映画です。
なお、タランティーノは本作品以外に同監督の【デスペラード】(1995) でもバーの集金人役で出演していますが、この作品でもいかにも神経質そうな役柄を演じています。
基本情報
公開・製作国:1996年、アメリカ
監督:ロバート・ロドリゲス
原題:From Dusk Till Dawn
配給:ディメンション・フィルムズ
キャスト:ジョージ・クルーニー、クエンティン・タランティーノ、ハーヴェイ・カイテル
© 1995 Miramax, LLC . All Rights Reserved.
【御法度】
作品解説
【御法度】(1999) は、大島渚監督の遺作となった作品で、美少年の剣士加納惣三郎を松田優作の息子である松田龍平が演じています。
司馬遼太郎の短編小説集「新選組血風録」に収録されてある「前髪の惣三郎」と「三条磧乱刃」が原作です。
新選組を扱った作品はこれまでいくつか作られてきましたが、男色の視点から描かれた作品というのはかなり異色ともいえます。
大島監督は【戦場のメリークリスマス】(1983) でも男同士の微妙に妖しい関係を描いていましたが、本作品もそうした流れを汲んだ作品となっています。
規律の厳しい新選組に1人の美少年が入隊したことで、隊内がざわめくことから物語は進んで行きます。
【御法度】(1999) では2人の監督が出演していますが、新選組局長の近藤勇を崔洋一が、新選組副隊長の土方歳三をビートたけしがそれぞれ演じています。
加納惣三郎を目の前にして、あくまでも隊の規律を求める土方に対して、どこか煮え切らないけれど喰えない近藤という立ち位置の違いが映画ではよく表れています。
ただし、この作品を見ていて最後まで分からなかったのは、そもそも加納惣三郎は何のために新選組に入隊してどうしようとしていたのか、あるいは前髪をあげなかったのはどうしてかということです。
【御法度】(1999) では実在する新選組の人物は鮮明に描かれていることに対して、実在していたのかどうか分からない加納惣三郎はつかみどころのない、何を考えているのかよくわからない謎のような人物にも見えます。
しかし、そのような描かれ方をしたからこそ、美少年の持つ妖しさとそれに振り回される他の隊員という構図がうまくこの作品でははまっています。
これが映画初出演ということもあってか、松田龍平の演技の未熟さは否めないのですが、脇の役者をしっかりと固めたことで、どこかまだ男くさくない美少年に振り回され翻弄される男たちの姿というのが微妙なバランスで描かれています。
最後に土方が近くの早咲の桜を刀で叩き切るシーンがあるのですが、それはまるで自分も他の隊員と同様に持っていたのかもしれない加納惣三郎への思いを断ち切るような、そんな一太刀だったのではないでしょうか。
基本情報
©1999 松竹/角川書店/IMAGICA/BS朝日/衛星劇場
【ラッキー】
作品解説
【ラッキー】(2018) は、監督が俳優でもあるジョン・キャロル・リンチで、主人公ラッキーを演じたハリー・ディーン・スタントンの遺作となりました。
一人暮らしのラッキーはそれまで自分のペースで淡々とした日常を過ごしていましたが、自宅で転倒したことをきっかけに自分の死を意識するようになります。
子供時代に怖かった暗闇のことを思い出し、行きつけのダイナーのウェイトレスであるロレッタには、誰にも言わないでくれと前置きした後、一言怖いのだと告げます。
淡々とした日常は変わらないものの、死を意識する前と後ではまるで違ったもののように感じられるラッキーでしたが、ダイナーにやってきた弁護士からは自分が少し間違えば交通事故で死んでいたかもしれないということを、同じく元海兵隊員のフレッドからは、太平洋戦争で沖縄に従軍していた時に見た死を前にした少女の美しい笑顔が忘れられないという話を聞きます。
そうした話を聞いているうちに、ラッキーも死に対して静かに向き合っていこうとするというのが大まかなストーリーです。
この映画では、ハリー・ディーン・スタントンの盟友でもある監督のデヴィッド・リンチが友人のハワード役を演じています。
ハワードもラッキーと同じく独り者の老人でしたが、彼は家出したカメのルーズベルトに遺産を残そうと本気で考えているというちょっとユニークな役柄です。
映画のラストでラッキーが淡々と語るセリフは東洋的な死生観に通じるものがあるようですが、自分の死と向き合うという似たようなテーマを扱った映画では、黒澤明監督の【生きる】(1952) があります。
両方の映画を見比べてみると、映画の中で描かれている死生観の違いといったものがとてもよく分かります。
【生きる】(1952) では、志村喬演じる市役所に務める渡辺勘治が、医者から胃癌で余命いくばくもないと告げられてから死に対する恐怖からうろたえるものの、最後は自分にまだできることがあるとばかり市民の要望であった公園を完成させて亡くなります。
【生きる】では自分が生きてきた何かの証を残そうとしたことに対して、死んでしまえば何もかもが無だ、無を前にしては微笑むだけだというラッキーのセリフを聞くと、時代は異なるものの死に対する考え方の違いに気づかされます。
ただ、ラッキーは死んでしまえば無になるから、何をやっても無駄だと言っているのではないでしょう。
死んでしまって無になるからこそ、それに向き合うことで生きていこうと言っているのは確かです。
映画のストーリーとは別に、ラッキーがコンビニ店主ビビの息子の誕生日に呼ばれ、マリアッチの伴奏で恋の歌「ボルベール、ボルベール」を歌う場面があるのですが、なかなか味わい深く聞かせてくれるラッキーの歌声もこの映画の見どころの1つです。
基本情報
公開・製作国:2018年、アメリカ
監督:ジョン・キャロル・リンチ
原題:Lucky
配給:マグノリア・ピクチャーズ
キャスト:ハリー・ディーン・スタントン、デヴィッド・リンチ、ロン・リビングストン
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